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亜流で異端のジャーナリストならではの自由な手法
(2008-05-07)
「官邸崩壊」の著者による好著との評判から手にしてみた。
で、なかなか面白い。ルポルタージュとしての本来の成熟度は「崩壊」が上だが、描き出した画像の鮮明さと持続性はこちらのほうが上だ。
「自身の記事を批判するという『自爆行為』」、「自らの失敗には目を瞑りながら、取材対象には匿名で批判を加える報道姿勢」への挑戦が本書の基本構成となっている。即ち、自らの21本のルポを「背景」と「検証」ではさみこみ、事後の観点で洗い直し、再生させている。
本書の趣旨は成功している。小泉が日本の伝統ジャーナリズムを翻弄し、あるいは無視したか、その一方で、型にはまった安直なジャーナリズムが、いかに空振りや見過ごしを重ねたか、がよくわかる。それと同時に小泉政権の虚々実々が浮かび上がり、その後の安倍、福田政権の迷走ぶりや政党政治家や中央官僚の魑魅魍魎が鮮明になってくるからだ。
ある種の奇手ともいえようが、英文記事を書かない「NYタイムズ」のフリーライターという、いかにも亜流で異端のジャーナリストならではの自由な手法といえよう。この活力と自省が土台があったからこそ、タイムリーな安倍政権の内情暴露が生み出されたということなのだろう。
今からでも遅くはない。面白いから読んでみてほしい。
著者の葛藤が垣間見られる本
(2007-10-05)
著者の『官邸崩壊』を読んで内容に共感したので、別の著書であるこの本を読んでみた。
内容は他のレビューでも書いてある様に、著者の『その当時の記事』を今、振り返って、その当時の『背景』及び『検証』を書いている本である。
結論から言うと、メディアがその当時書いていた予想記事はことごとく間違っておりそれを今でも認めておらず、その反省なきままに今に至っていると。
著者の言葉を借りると“本当に私が目指したのは、自身の記事を批判するという「自爆行為」によって、日本のメディアの慣習を打ち破り、権力との健全な緊張を取り戻したい、・・・”
著者は、ジャーナリストの究極の仕事は、権力を監視することだと述べている。
小泉純一郎に対し、厳しい評価をし監視しようとしながらも、その一方、何か文面から小泉純一郎に惹かれていっている様子が感じられるのは私だけだろうか。
著者の小泉純一郎に対する評価はこの一言に集約されている気がする。
“ときに支離滅裂な論理を振りかざすが、小泉は、誰がなんと言おうと、正直な政治家だった”。
小泉純一郎論、出色の一冊
(2007-09-16)
小泉政権の誕生から終焉までを、自らの執筆記事への反省を込めながら振り返った好著。「権力とメディアの健全な緊張関係」の視点から、自らの執筆記事とその後の検証を対比しながら叙述を進めるというスタイルが、「小泉時代」のある種の熱気と当時のメディア報道への真摯の反省をより際立たせ、一気に読める。これを読むと、小泉さんと安倍さんの大きな違いは、権力闘争の本質(=非情さ)を皮膚感覚として理解し得たかどうか、消化器系のコンディションを十全に保ちつつどこまで孤独に耐え得る精神力を有していたか等々であったことがよく分かる。
なお、個人的には、外務省による「ドミニカ移民見殺し事件」について、当時の林屋永吉調査官(外務省)が、ある農林技官をして現地の劣悪な土地を「優秀な土地」として虚偽報告させたという一文が目を惹いた(同書201頁)。(これが、かの高名な林屋永吉氏と同一人物であるとすれば、氏の著作等については今後眉に唾をつける必要があろうか。)
それにしても「二世議員」といっても色々だ。福田さんはどのような宰相となるのであろうか。上杉氏の今後の取材・報道に期待したい。
マスコミの自浄作用は期待できるのか
(2007-08-26)
良書である。
小泉政権時代の5年間を本書作成時点で振り返り、当時自分が書いた記事に対して批評を加えている。
この本の示す通り、今のマスコミには自浄能力が欠如しているように見える。
当初から過ちのない情報を完全に伝えるということは不可能であるし、そこまで求めていない。
しかし、だからこそ誤った記事を掲載した場合には、それに対する検証、訂正、反省が欠かせないはずである。
この本は、マスコミ関係者にこそ勧めたい本である。
操られ侮られるメディアと国民
(2007-05-05)
本書は、稀有の宰相小泉に、操られ侮られるメディアと国民と政治家の様を、著者自身の当時の発表原稿を素材に解き明かす。
この作業を著者は、日本のメディアとジャーナリストとが新たな質を獲得するために必須と捉えているようだ。
新聞の政治部記者が、政策論議を報道せず政局と人事の報道を専らとし、政治家と派閥の「友人」として、その手先として作用しているとの批判が有るが、本書からはさの作用すら弱体化している様が窺える。
著者からは、ペンに拠って何かを世に問う作業をするものとしての志の強靭さが伝わる。
ポスト小泉時代の空疎な空間に、パンとサーカス共に不足する国民は、本書をどの様に読むのだろうか。
